地面の下に潜む大ナマズと、
日本文化の中での地震
日本人にとって恐ろしい四つのもの、それは地震、雷、火事、親父である。しかし、伝統的な家族形態が深刻な危機を迎えている社会においては、親父はもやは恐ろしくない。火事にいたっては、現在のセメントの家はずっと安全である。だが地震は今も最も大きな恐怖だ。
日本列島は、オホーツクプレート、アムールプレート、フィリピン海プレート、沖縄プレート、そして大平洋プレートといったいくつものプレートの長い年月に亘る動きによって、形作られてきた。また、日本の全土は環太平洋火山帯に含まれる。この広大な帯は、チリからニュージーランドにかけて大平洋をぐるりと一周するもので、おびただしい数の火山があり、巨大地震に見舞われる地域である。つまり沖縄から北海道まで、日本ではどの地域においても地震の影響から逃れることが出来ないのである。
日本人は常に地震を恐れ、畏怖し、そして共存することを学んで来た。推古天皇(554〜628年)の時代に大和地方を襲い、大変な被害をもたらした599年の地震の記録のように、日本の最初の史料は同時に、日本の地震に関する初の資料でもある。
このように日本の土地に、そして日本文化の中にも、地震は大変大きな跡を残してきた。宗教において、建築において、美術において、文学において、そして音楽におけるまで、地震は日本の魂の奥底を揺り動かして来た。神道では地震を巨大なナマズの姿をした大鯰として神格化し(ナマズは日本のほぼ全土の湖沼に棲息しているが、大鯰は伝説である)、『古事記』は、鯰の途方も無く大きな頭がタケミカヅチ(もしくは鹿島神=カシマノカミとして知られる)に抑え込まれていると語っている。鹿島神が手を放すと大鯰は動き出し、新たに抑え込まれるまで巨大な尾で日本を揺り動かすのである。美術において、この鯰と鹿島の伝説は、浮世絵の一つのジャンルを産み出した。それはまさに「鯰絵」と呼ばれ、鹿島が鯰の頭の上に立ち、刀を掲げている様子を描いたものである。そしてどうやら、実際のところ、この伝説は事実に基づいているようなのだ。「ナマズは大きな地震が来る前の小さな揺れを感知できる」。この現象については昨今日本の大学でも研究されているし、日本のかつての漁師たちはおそらく、この大きな淡水魚の動きを、地震が起こる可能性に結び付けていたことであろう。
伝統的な建築物のなかで、パゴダ(仏教寺院の塔)は古代日本から生き残って来た最も古い建築物である。火事の犠牲にはなったものの、日出ずる国の地震による破壊からは逃れているのだ。奈良の法隆寺の有名な五重塔は、芸術面だけではなく耐震建築物としても秀作とされている。建築材料は非常に柔軟な材質のもの、木であり、非常に巧妙な組み立て方法(組み木)と絶妙な比率計算のおかげで、この建造物は地震の間、たわんで地面の揺れに上手く合わせることができるのだ。塔の第一層が地震による波打ちを徐々にやわらげ、それが建築物の上の方に上がって行くため、各層はそのすぐ下の層とは逆方向に向けて波打つのである。あるパゴダ建築家はこの動きを観察し、「スネークダンス」と呼んだそうな…(図参照)。日本の伝統的な城の土台である石垣にも、建築術の秘密がある。石どうしを接着させないで「空積み」するのである。すると、破壊されることなく地震の動きに従うのだ。であるから、廃虚となった城でも基部だけは残っているし、また上部の木で造られた部分は何世紀ものあいだに火事によって焼失したものである。ちなみに鎌倉の高徳院の大仏殿は、1498年の津波によって損壊し、その後大仏は「露座の大仏」となった。
極東の国々の伝統的な家や寺院は、石の上に木の基礎部を置くのであるが、それは、木が直接湿った地面に触れて腐敗することを防ぐためだけでなく、地震の際に石の上で木が地面の動きに合わせて自由にスムーズに動くことができ、建物を支える部分の破壊を防ぐことができるのである。しかしながら、日本の伝統的な木造住宅の瓦屋根は、雨期の豪雨や台風に耐えうるように造られているためにとても重く、この重い屋根が1995年の阪神・淡路大震災において、おびただしい数の家が倒壊し多くの死者を出す原因となった。
さて日本文学においては、地震について引用したくだりが数多く有るが、地震そのものが、1900年代のひとりの大作家の人生と芸術スタイルを変えた例がある。谷崎潤一郎(1886〜1965年)は1923年の関東大震災で壊滅状態になった国際都市の首都から、京都に移り住んだ。そして彼はその地において、日本文学の深遠なる根源を再発見することになる。1923年の地震は谷崎に、真の創造的インスピレーションの発見と、その文学スタイルの分岐点をもたらしたのである。
では音楽はどうであろうか? 1995年の地震でずたずたになった神戸の町の道の焼けた瓦礫の間で、チンドン屋の音が響いた。寒さの中で冷えきった身体の生存者たちの笑みを引き出そうと、中川敬(たかし)と彼のチンドン楽団ソウル・フラワー・モノノケ・ユニオン(ロックバンド、Soul Flower Unionによる活動) が『復興節』を奏でたのである。『復興節』とは中国古曲のメロディーに載せて、1923年の地震のあとの東京で唄われていたものであった。見分けがつかなくなった町の道でも、地震に息を吹き込まれた音楽は仲間や慰めを与えていた。日本の歴史は、変わること無く永遠に、地震と交錯する。まさに仏教の説く「空」や「無」のように、地震は我々に、我々が根底からもろくはかないこと、そして頼り無き存在であることを思い出させる。だがそれでもなお日本人は、感性と畏怖の念をもって、地震を芸術的創造の機会にすることさえできたのである。
フロリアーノ・テッラーノ
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