『ドラえもん』

~日々の生活の中の魔法~


 45の魔法の日々である。45年にもわたり、ドラえもんとその冒険は、無数の子供&大人(それも日本人だけではない)の人生に寄り添ってきたのである。野比のび太と彼の猫型ロボットは少なくとも二世代にわたって、もはや日本文化の一翼を担っていると言えるだろう。
 『ドラえもん』は藤子・F・不二雄の鉛筆から生まれた。藤子・F・不二雄は、藤本弘(193396)と、安孫子素雄(あびこもとお 1934~)の二人の漫画家コンビのペンネームである。彼らは二人とも富山県の出身で同じ小学校に通い、この同級生時代に二人で漫画を描き始めた。彼らの共同の芸術活動はそれ以来ずっと続き、1951年の手塚治虫 192889 との出会いにより、世に認められるところとなる。手塚治虫はそのとき二人の漫画家の才能を直感したという。1969年に小学館より最初の『ドラえもん』が出版されるやいなや瞬く間にヒット作となり、それは現在まで途絶える事がないのは周知の通りである。
 藤子・F・不二雄によって創り出された登場人物は架空のものだ。しかし人間の性格と心理が驚くほどリアルに描かれている。後年、藤子・F・不二雄の小学校のクラスメート達は、『ドラえもん』の登場人物は彼らの小学校に実在した人達から着想を得たものだと証言している。どの登場人物の性格も、よくある特徴を捉えたものであり、それらはまた欠点であることが多い。だがそれは人間の性格のステレオタイプをあげつらったものではなく、さりげなく目立たなく描かれている。しかし彼らが置かれた様々な状況によって、いざ、個性が際立ってくるのである。
 ドラえもんはどんな時にものび太を助けるし、意志薄弱なのび太を叱ってくれる。とはいえ、ドラえもんにも欠点が無いわけではない。ドラえもんは食いしん坊で、彼の大好きなどら焼きを目にしたら最後、食べずにはいられない。野比のび太はこの漫画のすべてのストーリーの主人公である。彼はやる気がなく怠け者で、何に関してもぱっとせず、弱くて、不平ばかり言っている子供だ。しかし他方では、寛大で繊細で、友達を助けようという義侠心がある。ジャイアンは太っていて横暴ないじめっ子で、いつも自分より弱い友達を殴るのだが、母親と、母から下される強烈なお仕置きを大変恐れている。ジャイアンは、だが、妹のジャイ子に対しては優しい一面を見せる。妹への深い愛情にあふれているし、またのび太に対しても感動して涙を流したり、許しを乞うたりすることもあるのである。スネ夫は、家が裕福であることを鼻にかけ、いつも級友に大変高価なおもちゃを見せびらかし、羨ましがらせる。しかし実際のスネ夫は臆病者で日和見主義、そして時に卑屈になる。また、背が低いために彼は同じ年頃の子供に対して劣等感を感じてしまっている。しかしながら彼は大変な科学好きであるし、友人に真剣に手を差し伸べるときのスネ夫は、人を思いやる心を欠いた人間ではない。可愛くてちゃんとした性格の女の子静香ちゃんに、のび太は恋心を抱いている。静香ちゃんは愛らしくて優しいが、強くて断固としている。特に、のび太が入浴中の静香ちゃんを覗き見したときには、怒りが大爆発する(このシーンは皆さんご存知だろう)。
 ドラえもんワールドの成功の秘密はいくつかあるだろうが、少なくともその一つとして数えられるものは、登場人物の素朴な、ごく普通のものの言い方(だがそれは決して陳腐ではない)と、彼らのいかにも子供らしい空想力である。それをくぐると一瞬にしてどこにでも行ける扉や、過去や未来へ時間旅行をすることができるタイムマシン、そして空を飛んで他の町に行けるなんてことを夢見ない子供などいるだろうか? すべての夢は、ドラえもんのお腹のポケットから引っ張りだす「道具」(すごいテクノロジーの賜物であるがらくただ)によって可能となるのである。しかしこの、物凄いテクノロジーの「道具」は完全で確実というわけではない。特に、のび太がこの「道具」を使うと色々とやっかいな問題を引き起こし、裏目に出てしまう事がしょっちゅうなのである。嫌がらせをする友達に仕返しをしたり、宿題をさぼったり、弱虫の自分を乗り越えるためにのび太は「道具」を使おうとするわけだ。しかし結局、ドラえもんの「道具」を使用した後は、のび太の解決すべき問題は初めよりさらに困難なものとなってしまい、彼の置かれた状況は決まって更に悪くなってしまっている。とはいえ時折、のび太の天才的ひらめきにより、ドラえもんよりもうまく「道具」を使いこなせることもあるのだった。
 藤子・F・不二雄は、秀逸を極めた絵とストーリーをもって子供の望み全てを描き、そしてそれらを万人の共有物と成し得た。物語には優雅なアイロニー(日本語の言葉遊びや、登場人物の名に見られる遊びなどにおいて)が盛り込まれている。カタカナとひらがなを合わせたドラえもんの名前は、どら猫(野良猫)の「どら」と、かつて日本の男性の名前に付けられた「衛門」が引っついたもので、彼の大好きなどら焼きの「どら」も入っている。野比のび太の名前も言葉遊びであり、「のんきに構える人」というような意味合いだろう。そしてもしも「伸び太」だとしたら、「成長して強く誠実になる」という意味にもなる。ジャイアンの本当の名前は剛田武だが、大きな子供なので英語のジャイアントを取ってあだ名はジャイアンだ。出木杉くんは頭が良く、クラス一の優等生であり、さらに静香ちゃんと仲良しであるため、のび太は嫉妬させられる。彼の名前を他の漢字に置き換えると「出来過ぎ」となるのである。神成(かみなり)さん(もちろん雷から来ている)は、怒りっぽい盆栽好きなおじさんである。彼の家の庭にしょっちゅうジャイアンの野球ボールが投げこまれ、雷が落とされる。ほかにもこの漫画では多くの言葉遊びがある。例えば、のび太が自分の名前を間違って書き、のび犬となってしまっているのを発見した時には、私のように日本語を勉強している者は楽しい気持ちになる。
 ドラえもんの「道具」のなかには、斬新なテクノロジーを空想的に描いていたものが今現実に存在するようになったものもある。その当時は、テクノロジーへの依存をあまりにも募らせる日本社会への皮肉を表現していた。それが誇張されたはずの未来の科学技術であったにもかかわらず、いつしか人間の日常の常識に成り果ててしまった。
 『ドラえもん』の物語は、東京の練馬区で繰り広げられる。ここは様々な著名漫画やアニメと深く結びついた土地で、この地域に日本の主要なアニメ関連企業がある(練馬区は日本のアニメ産業の礎となった地である)。『ドラえもん』で描かれている日常生活は、日本が安泰であった昭和の後半のものだ。舞台となっている地域の、低い屋根の間の路地、こま切れの庭、小さな公園、網の目のような溝。移り変わる季節、学校に間に合うようにひとっ走りする早朝、恐い先生、宿題を終えてから近所の友達やクラスメイトと遊ぶ午後。どれもが日常生活から切りとられた、くっきりとした一コマなのだ。のび太とその友人達の生活は、日本の伝統的な家族のそれである。父親は働き者の会社員でお酒が大好き、母親は家と家計と台所に絶対的な権力を持つ専制主婦である。
 ドラえもんとのび太によるタケコプター飛行によって、しばしば、東京の実際の場所(例えば東京タワーなど)を見ることができる。『ドラえもん』は、日本の様々な日常の慣習を見せてくれるギャラリーである。日本の伝統的な家や物、毎年の桜の開花や秋の紅葉。そしてこのギャラリーは、神道と仏教、日本の伝説と迷信までも見せてくれる。生きた日本文化のちょっとした百科事典だ。


 『ドラえもん』のどの物語においても、日常生活の素朴な小さな意義が見える。それはあたかも公案(禅僧が悟りを開くために行う、意味の捉えにくい問答。パラドックスで成り立つ禅問答)のようだ。世界中の全ての地域に住む人々と同様に、練馬に住む人々が携えている「不足」と「徳」を、藤子・F・不二雄は、モラルやお座なりの性善説を振りかざす事なく、ただにこにこ笑いながら描いているのだ。これこそが、日々の生活の中から生まれる『ドラえもん』の魔法なのである。

(Doraemon Opening 1 Doraemon no Uta ドラえもんのうた 1979
www.youtube.com/watch?v=zxY-3OeeScc)
フロリアーノ・テッラーノ

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