伝統の色、誇りの色彩
~着物~


 る国民が伝統的な民族服を着ている時こそ、まさに「その国」を感じさせるものです。極東では、それぞれの文化圏に於ける伝統的な衣装を今なお大切にしています。それを実際に身につける人は少なくなっているにしても…。
 中国は、極東の全ての文化の偉大なる母ですが、服を身につける方法やそのスタイルについても根底から影響を与えました。飛鳥時代(592~710年)の高松塚古墳(7世紀終わり~8世紀初めに築造の円墳)の壁画に表された、「飛鳥美人」のニックネームで知られる女性たちは、同時期の中国と韓国の衣装と酷似したエレガントな衣装を身につけています。中国の唐王朝(618~907年)が、男性の伝統的なフォーマル服である「深衣」(しんい)を韓国と日本の両国に持ち込んだためです。そしてこれが、韓国の韓服(はんぼく)と日本の着物それぞれの原型となっていくのです。
 しかし、日本人に認識されている「着物」の直接の原型はと言えば、「小袖」です。小袖は、元は庶民が着用していた衣服を平安時代の貴族が下着として使用するようになったもの。そして室町時代(1336~1573年)には、小袖はれっきとした衣服として着用されるようになります。そこでは、それまでの衣装の特徴であった下半身を覆う「袴」(「平安装束」を想像してみてください)がなくなり、帯で結ぶだけのスタイルとなりました。江戸時代(1603~1868年)になると小袖の袖は長くなり、帯はぶ厚くなり、こうして我々が今日知っている「着物」と本質的に変わらない着物が出来上がったのでした。
 着物の、このシンプルな「T字」の中には、深遠なる日本文化に混在する特徴が多く隠れています。素材から色、その着方に至るまで、着物はまず着物自体の存在をアピールした上で、それを身につける人に合わせてその場その場でうまく人と調和しなければなりません。
 たとえば前合わせ。襟を合わせた時に左側が上に来なければなりません。これを「右前」と呼ぶ理由は、着物を着る時に、まず右側の襟を先に身体に合わせ、次に左を重ねるからであって、「右が手前になる」という意味です。ただ、亡くなった人に白い「死装束」を着せる時には、「左前」つまり左側を先に身に重ね、次に右を上に重ねるようにします。
死装束と同じ白色の「白無垢」は、神道の結婚式つまり神前結婚式において花嫁が身につける、表裏白一色に仕立てた婚礼衣装です。このように「白装束」は、結婚の時と亡くなった時の両方で使用されます。それは、白が純粋無垢のシンボルであり、汚れを洗い清めるという意味があるからです。
 対して、まるで色が炸裂したかのような絢爛豪華な花嫁衣装である「打掛」(挙式で白無垢を着た後、会食や披露宴などでお色直しします)は、大変凝った浮き織りの錦と赤が基調の着物です。
 一方、「振袖」は若い未婚女性が着る着物であり、二十歳を迎えた成人式の晴れの舞台で着用されます。振袖の袖の長さは時に1mを超えることもあります。このように派手な女性の着物に比べ、フォーマルな場面での男性の着物はといえば、七五三に始まって結婚式、そして葬式参列に至るまで黒や濃紺やグレー。一貫して暗い色なのです。
 伝統的に着物は一枚の布(長さ11.5m、幅約36cm)で作られ、おとな一人分の着物を作れる布を「反物」と呼びます。総手縫いの着物の素材には色々ありますが、やはり絹生地のものが秀逸ですね。ところで皆さんは、着物の最良の洗濯方法をご存知でしょうか? 伝統的には、着物を洗う時には一旦ほどき、各パーツを洗濯したあと、もう一度縫い合わせるのです。しかしそこで再利用して「羽織」にリフォームしたり、「比翼」(襟、袖口、裾などを二重にして2枚の着物を重ねたように見せる仕立て)の材料に使ったり、もしくは、子供のために小さな着物を作るといったこともできるところが、着物の多能たる所以です。
 そして、多能な着物が“自己アピール”している箇所には、どこをとってもすべてに意味があります。例えば折り目の数や帯の結び方など。帯を前面(お腹の前)で結ぶというのは花魁など遊女のやり方であって、それは芸妓と区別するためのものでした。
 最も高価とされる着物は、浮き織りをあしらったものと、「友禅染め」によるものです。友禅は、布地に模様を染めたり、実際に絵を手描きしていくというもので、江戸時代に生み出された技法です。貴族階級の高級な錦の浮き織りの着物に、安上がりに似せる方法として考え出されたのですが、その後、友禅は独自の芸術として進化していきました。そういった着物の装飾に、目下の季節のエレメント、例えば秋の紅葉の葉や春の桜の花などがモチーフとして用いられるのです。
 暑い夏の着物は、シンプルで軽い素材の「浴衣」です。日本式の旅館や温泉宿ではサービスとして貸してくれますので、日本に行ったらぜひ旅館に宿泊し、浴衣で寛いでくださいね。
 とはいえ昨今、着物文化はすっかり衰退し、今や、何かのセレモニーの場でのみ着用されるものとなってしまっています。日本人の日常生活での着物習慣はほぼ無くなっており、これは若い世代だけの話ではありません。着物の衰退は実際には、明治時代(1868~1912年)に既に始まっていました。明治天皇より「服制改めの勅愉」が下され、それに従って学校の先生や警察官、鉄道員、兵士や男子学生などは制服もしくは楽で機能的な洋服着用と規定された時から、始まっていたのです。続いて1920年代、女学生の制服として船乗りスタイルであるセーラー服が取り入れられ、それまで女学生が着用していた「袴」に取って代わります。
 戦後の産業の発展に伴い、断然実用的で着やすい洋装が躍進し、着物の需要はぐっと減り、今の日本では外出したり仕事したり買い物したりといった毎日の生活の中で着物を着る人を見かけることは、ほとんどなくなりました。
 そのような中、浅井広海(あさいひろみ)という若き着物スタイリストがここ何年か、着物を「最先端ファッション」として世界に発信しています。「日本文化のみに帰属する着物」という考え方を捨て去り「着物を普遍的で実用的な衣服として扱おう」というコンセプトは世間の支持を受けており、マスコミからもかなり注目されています。実際、海外の人々の着物への関心の高さには、目を見張るものがあります。去る5月22日まで3カ月にわたってパリのギメ東洋美術館(Musée National des Arts Asiatiques - Guimet)にて開催されていた「着物・オ・ボヌール・デ・ダム展」(Kimono, Au Bonheur des Dames)では、着物の老舗「松坂屋」(創業1611年)の着物コレクションの見事な傑作120点が公開されました(「松坂屋コレクション」には約5000点の所蔵品があるそうです)。また、昨年Mondadori Electa出版社から発行された『Kimono. L'arte del bello nella cultura giapponese』は、着物の美とそれを織り成す貴重な生地に捧げられた写真集です。
 「日の出づる国」の本質そのものである、このエレガントな衣装へのパッションが、願わくば日本においても再び沸き上がりますように。伝統に新しいスタイルを融合させるなどして、もう一度、日常生活の中で身につける衣服になれば、とも思います。

フロリアーノ・テッラーノ

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