FUKAGAWA-SEIJI Milano studio
Associazione Culturale ARTE GIAPPONE
Associazione Culturale ARTE GIAPPONE
I sogni che si vedono
Ceramica e porcellana giapponese
al Fukagawa-Seiji Studio di Milano
al Fukagawa-Seiji Studio di Milano
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La ceramica, già presente in Giappone nel periodo Jomon (13000 aC - 300 aC), si sviluppa grazie all’apporto di maestri e modelli cinesi e coreani. Intorno al V secolo dC (periodo Kofun) l’introduzione in Giappone della fornace di tipo Anagama di provenienza coreana permette agli artisti locali di raggiungere eleganza e raffinatezza sempre maggiori. I maestri giapponesi seppero infatti sviluppare un proprio stile creativo che distingue tuttora la ceramica del Giappone dalle altre produzioni orientali, la cinese in particolare. La porcellana, creazione squisitamente cinese, viene introdotta in Giappone nella parte nord-occidentale del Kyushu – la più vicina alla Corea - nei primi anni del XVII secolo (inizio dell’epoca Edo-Tokugawa, 1603-1868). Da quel momento, tazze, coppe, vasi Imari vennero esportati in Europa, trasportati soprattutto dai mercantili olandesi. La Francia, l’Inghilterra, l’Olanda, l’Austria conobbero la porcellana giapponese molto tempo prima di conoscere ed apprezzare le stampe e gli altri oggetti d’arte del Sol Levante. Nel 1894 Chuji-Fukagawa diventò il più famoso al mondo nella porcellana artistica e creò la “Fukagawa Porcelain trade mark of Mt.Fuji”. Organizzò un gruppo di artisti e produssero molti pezzi finissimi da esporre all’EXPO” di Parigi. La compagnia ha fornito la casa imperiale fin dal 1910. Inoltre le tecniche ereditate dal fondatore sono rare ai suoi tempi, e questa arte esoterica è il volto più straordinario del suo design.
Floriano Terrano
講演会と
深川の磁器でのお茶会
出会う夢
出会う夢
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深川製磁ミラノスタジオの陶磁器
深川製磁ミラノスタジオの陶磁器
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日本において陶器は、中国と韓国からの恩恵によって既に縄文時代(紀元前13000年―紀元前300年)に発展をなしていた。5世紀(古墳時代)には、韓国を起源とする“あながま”のような様式の窯が日本に導入され、地方の職人達が常により優れた優美さと洗練さを表現するに至る。
事実、日本の職人達が中国を筆頭とする他の東洋の国々の陶器製造と異なる独自の創造的な様式を展開させたのは承知の通りである。磁器においては、中国をその発祥とし、韓国に最も
近い日本の九州の北東部に17世紀初頭(江戸―徳川時代、1603-1868)に輸入された。
この時依頼、カップ、グラス、“伊万里”の壷などが、特にオランダの商人達によってヨーロッパに輸出された。フランス、イギリス、オランダ、オーストリアでは、この“日出る国”からの版画や他の美術品を愛好するずっと以前より、日本の陶器が知られていたことになる。
1984年に深川忠次は、富士山のトレードマークの深川製磁を創立し、工藝陶器の世界で最も著名な一人となる。工藝職人達のグループを指導しパリの万博に展示する為の数多くの洗練された作品を製造する。同社は、1910年から宮内庁御用達である。創始者の残した意匠は、その時代においても特質しており、そのデザイン継承における神秘性となっている。
事実、日本の職人達が中国を筆頭とする他の東洋の国々の陶器製造と異なる独自の創造的な様式を展開させたのは承知の通りである。磁器においては、中国をその発祥とし、韓国に最も
近い日本の九州の北東部に17世紀初頭(江戸―徳川時代、1603-1868)に輸入された。
この時依頼、カップ、グラス、“伊万里”の壷などが、特にオランダの商人達によってヨーロッパに輸出された。フランス、イギリス、オランダ、オーストリアでは、この“日出る国”からの版画や他の美術品を愛好するずっと以前より、日本の陶器が知られていたことになる。
1984年に深川忠次は、富士山のトレードマークの深川製磁を創立し、工藝陶器の世界で最も著名な一人となる。工藝職人達のグループを指導しパリの万博に展示する為の数多くの洗練された作品を製造する。同社は、1910年から宮内庁御用達である。創始者の残した意匠は、その時代においても特質しており、そのデザイン継承における神秘性となっている。
フロリアーノ・テッラーノ
講演内容要約
日本においての陶器製造技術は、中国と韓国からの恩恵によって既に縄文時代(紀元前13000年―紀元前300年)に発展をなしていた。1の地図でも把握出来るように東洋の末端である日本の九州地方、韓国、中国は、地形的にも連鎖しており、これらの地域は古き時代より考古学研究の宝庫とされている。中国に東部中心に位置していたJintanでは、紀元前1万年より陶器の製造がされていた。高嶺(Kaoling)では、白粘土が発掘され、後の陶磁器の歴史に大きな影響を及ぼしていた。1日本(九州地方)・韓国・中国の位置関係を示す地図土器の表面に縄をかたどった文様が特徴的な日本の縄文土器は、中国の同時代のそれと形体、そして表現の豊かさにおいて明確な差が見出される。日本の美の特徴である非対称性が既にこの時代の土器に明確に現れていた。 (2)2縄文時代土器、縄文時代末期3世紀から7世紀における古墳時代は、その後の飛鳥時代に存続する日本芸術文化の発展の源となる。この時代の代表的なものに”埴輪“がある。”埴輪”とは何だろうか。それは、古墳を守護する宗教的な意味を含んだ土器であり、墓の目印となる役割があった。この埴輪3は、武装した男の姿を模った、1m60cmの高さをもつ大きなものであるが、日本における原始美術の大きな特徴が表す通り、大変に表現豊かに造られている。近接の中国の原始美術には見出すことのないこの日本芸術における“表現主義“は、後世の浮世絵の特徴ともなる。3武装した男を模った埴輪、粘土焼成、古墳時代 5世紀古墳時代の末期から奈良時代にかけては、陶器製造において革新的な変化が派生する。 5世紀(古墳時代)には、韓国を起源とする“あながま”様式の窯が日本に導入され、地方の職人達が常により優れた優美さと洗練さを表現するに至る。 陶器に釉薬をすばやくかけ、それがたれるかのようにそのままに、高温で閉ざされた“あながま”で焼成すると、陶器の表面に灰がかぶる。
4の陶器の表面は職人の手で彫られたものではなく、この釉薬の効果である。 この“不完全”な釉薬のかけ方は、韓国ではなく、日本で好まれた手法であり、これは、後の楽焼にも大きな影響を及ぼす。4灰釉薬をかけた長首の壷、
すえうつわもの、古墳時代、
7世紀
5のしずくのような釉薬をかけられた陶器は、奈良時代の”奈良 三彩“のものである。 三彩とは、3色を意味するが、実際には、赤、緑、茶、黄、黒の微妙なグラデーションを描く。
日本の奈良時代(710-784)は、中国のTang時代(628-906)と時代が重なっていることから、奈良時代の寺の建築は,Tang時代様式が取り入れられている。 “奈良三彩”の技術も中国から輸入されたものではあるが、さきほどの“不完全”な美への日本人の趣向がこの表現を革新的な芸術作品に生まれ変わらせた。5蓋付壷、茶釉薬、奈良三彩、
奈良時代、8世日本の職人達が中国を筆頭とする他の東洋の国々の陶器製造と異なる独自の創造的な様式を展開させたのは承知の通りである。磁器は、中国をその発祥とし、韓国に最も近い日本の九州の北東部に17世紀初頭(江戸―徳川時代、1603-1868)に輸入された。
日本での陶器の流布、流行については“茶道”つまりお茶のセレモニーの、千の利休や古田織部といった茶人達が韓国からの陶器を購入していたという逸話が多く残っている。
豊臣秀吉が日本を治めていた江戸時代は、政冶的激動の時代であり、韓国半島に征服を幕府は企てていた。
1592年と1598年の2度にわたって九州の佐賀地方を本拠としていた鍋島藩の半島への襲撃があり、この戦争は、陶器を強く愛する日本人が韓国産の器、また韓国人陶工へ略奪するという、いわゆる“器の戦争”となった。また、韓国から1020kmとしか離れていない九州地方では、1500年代の終わりから韓国人陶工が陶磁器製造業に従事する為の自主的な移住も多くあった。
1600年には徳川家康が勝利を治め、1603年には、幕府を京都から江戸に移し、その栄華を長く保った。
丁度、同じ1600年頃には、鍋島藩主そは、韓国から九州に戻り、この地にて陶磁器製造を指揮する。そして、有田に近い伊万里湾から、隣国の韓国に向けて陶磁器の輸入を開始する。
1610年には韓国陶工Yi-San-p’yong が肥前の泉山にて白陶石カオリンを発掘する。韓国の陶器は、既に色彩が多様されていたが、初期の日本陶器は、そうではなかった。白磁と染付けの青も韓国から輸入されたものである。
6は、鍋島藩主の為に制作、梅の花が絵付けされた柿右衛門の杯である。柿右衛門はきぜえもんを、本名としたが、唐津で彩磁を始めて試み、熟した“柿の“赤”色をその名に残した。秘法の釉薬の下に絵付けされた色彩は、その白磁を美しく引き立たせている。
6杯、柿右衛門陶器、江戸時代、
17世紀さらに強い色で絵付けされた⑦も柿右衛門様式の鍋島陶器であり、ブルーの色彩の濃淡を豊かに使いこなしている。
葉が描かれている部分は、その輪郭を大変に柔らかく表現し、陰影法の手法が大変優れた逸品である。その洗練された白磁とブルーは、京都の武家、中国そしてヨーロッパで広く知られるようになる。
柿右衛門などの陶工達の名の一部となっている“衛門”とは、本来は、皇居諸門の護衛を意味し、鍋島大名が磁器製造の秘法を密謀としたことに由来する。
金襴手。7皿、染付と石楠花絵、
鍋島陶器、江戸時代、17世紀8は、鍋島様式のお酒の徳利である。1609年には、日本の幕府は鎖国政策をとり、長崎の出島のみをオランダとの商業貿易の地とした。この磁器は、伊万里港に近い時代に輸出の目的に製作されたものである。中国の詩人がインスピレーションが浮かぶのを木の下で待っているという大変に異国情緒な光景が描かれている。
10は、柿右衛門スタイルの像。まさしく日本の洗練された美が表現されている。1680年にイギリスに輸入されたこの像は、まだ日本文化に対する知識が流布していない同国でインド産のものと推定されていた。8瓢箪型徳利、木の下に立っている男の姿を絵付け、有田、柿右衛門様式、江戸時代(約1660-1680年)9の壷も白磁と染付けのブルーの逸品である。北斎画にも見られるように竹と虎の絵柄は、仏教のイデオロギーの象徴として描かれていた。
9壷、虎と竹の絵柄による染付け、 有田、伊万里様式、江戸時代末期 -18世紀
10若い男の像、上絵付けによる装飾、 柿右衛門様式、江戸時代(約1660-1670年)
11、この竹の絵柄の絵付けされている酒徳利は、パリにある美術館の所蔵代表作であり、非シンメトリーの形がその意匠に美しく対応している。
下部に絵付けされている竹の子の発芽の絵図は、まるでそれが生きているかのような写実な描写である。
11酒徳利、多色釉薬によって彩色された陶器、柿右衛門、有田、江戸時代、17世紀末期―18世紀初頭
12は、殆ど色彩の使われていない水墨画の手法で12月の冬景色が絵付けがされている。
菖蒲の絵で名高い京都派の画家、尾形光琳の弟、尾形幹山による作である。
柿右衛門の絵付けのような鮮明な表現ではなく、濃淡の調子によって描かれたこの作品は、絵画が詩であり、また詩が絵画であるという、詩と絵画の融合が作者、尾形幹山の精神性と共に見事に表現されている。12矩形の皿、尾形乾山作、江戸時代、 江戸時代、17世紀初期この頃、中国では、1644年のMing朝の衰退により、国内の政冶・経済の危機が伴い、磁器製造にも難局を及ぼした。
イタリア、ナポリの地下鉄、またはローマのカンピドッリョ(現ローマ市役所の所在地)のある土地からは、この当時の中国の磁器が発掘されている。
こうした状況の中、特に1700年代後半、日本では、質、そして量と共に有能な職人達によって磁器の製造が盛んに行われるようになった。輸出は、ロシア、オランダ、アメリカまでに拡大した。
13は、1900年代初頭でのイギリスのクリスティーズのプライベートコレクションのひとつである深川の陶器である。13深川製磁、クリスティーズ・プライベートコレクション14は、尾形幹山作、象に乗る美人像を描いた絵画作品である。
この優美で洗練された女性と象の組み合わせは、仏教の思想に基づく、清純と道徳の象徴である。 人間の悟り、宗教的な題材を取り上げたこの絵画の実際のモデルは、大阪の江口界隈の遊女であり、“ジャポニズム”、異国的な情緒の香りのする作品に仕上がっている。14象に乗る美人、尾形幹山作15象に乗る古伊万里美人 置物 明治時代後期、深川製磁1900年にパリの博覧会に出品した深川製磁は、1910年には、宮内庁御用達の拝命を承るという栄誉を受ける。その当時の代表作と云える大壷は、パリ市チェルヌスキー美術館のエントランスを飾っている。
16、17 深川製磁商標。
16深川製磁商標17深川製磁商標今日のこの講演の締めくくりとして、私が昨年の10月にこのスペースで深川製磁社長の深川一太氏と対談した思い出をお話しする。深川製磁の磁器は、その“深川ブルー”と呼ばれる美しい青が特徴に挙げられる。その青の顔料で絵付けされた青い富士山の風景は、器の中で微妙で趣のある遠近法を生みだし、この物と物との間の興趣ある”距離感“とも云える感覚は、現代の日本では、失われつつあることを私は一太氏と語り合った。この感性は、日本古来の”もののあわれ“、外国語には翻訳の不可能な表現であるが、意味的には、”物の精神性への感受“に値する。
東洋の美術は、芸術家の瞑想的な思想から誕生し、その着想は、物、そして精神としての肉体に委ねられていくと言える。
4の陶器の表面は職人の手で彫られたものではなく、この釉薬の効果である。 この“不完全”な釉薬のかけ方は、韓国ではなく、日本で好まれた手法であり、これは、後の楽焼にも大きな影響を及ぼす。4灰釉薬をかけた長首の壷、
すえうつわもの、古墳時代、
7世紀
5のしずくのような釉薬をかけられた陶器は、奈良時代の”奈良 三彩“のものである。 三彩とは、3色を意味するが、実際には、赤、緑、茶、黄、黒の微妙なグラデーションを描く。
日本の奈良時代(710-784)は、中国のTang時代(628-906)と時代が重なっていることから、奈良時代の寺の建築は,Tang時代様式が取り入れられている。 “奈良三彩”の技術も中国から輸入されたものではあるが、さきほどの“不完全”な美への日本人の趣向がこの表現を革新的な芸術作品に生まれ変わらせた。5蓋付壷、茶釉薬、奈良三彩、
奈良時代、8世日本の職人達が中国を筆頭とする他の東洋の国々の陶器製造と異なる独自の創造的な様式を展開させたのは承知の通りである。磁器は、中国をその発祥とし、韓国に最も近い日本の九州の北東部に17世紀初頭(江戸―徳川時代、1603-1868)に輸入された。
日本での陶器の流布、流行については“茶道”つまりお茶のセレモニーの、千の利休や古田織部といった茶人達が韓国からの陶器を購入していたという逸話が多く残っている。
豊臣秀吉が日本を治めていた江戸時代は、政冶的激動の時代であり、韓国半島に征服を幕府は企てていた。
1592年と1598年の2度にわたって九州の佐賀地方を本拠としていた鍋島藩の半島への襲撃があり、この戦争は、陶器を強く愛する日本人が韓国産の器、また韓国人陶工へ略奪するという、いわゆる“器の戦争”となった。また、韓国から1020kmとしか離れていない九州地方では、1500年代の終わりから韓国人陶工が陶磁器製造業に従事する為の自主的な移住も多くあった。
1600年には徳川家康が勝利を治め、1603年には、幕府を京都から江戸に移し、その栄華を長く保った。
丁度、同じ1600年頃には、鍋島藩主そは、韓国から九州に戻り、この地にて陶磁器製造を指揮する。そして、有田に近い伊万里湾から、隣国の韓国に向けて陶磁器の輸入を開始する。
1610年には韓国陶工Yi-San-p’yong が肥前の泉山にて白陶石カオリンを発掘する。韓国の陶器は、既に色彩が多様されていたが、初期の日本陶器は、そうではなかった。白磁と染付けの青も韓国から輸入されたものである。
6は、鍋島藩主の為に制作、梅の花が絵付けされた柿右衛門の杯である。柿右衛門はきぜえもんを、本名としたが、唐津で彩磁を始めて試み、熟した“柿の“赤”色をその名に残した。秘法の釉薬の下に絵付けされた色彩は、その白磁を美しく引き立たせている。
6杯、柿右衛門陶器、江戸時代、
17世紀さらに強い色で絵付けされた⑦も柿右衛門様式の鍋島陶器であり、ブルーの色彩の濃淡を豊かに使いこなしている。
葉が描かれている部分は、その輪郭を大変に柔らかく表現し、陰影法の手法が大変優れた逸品である。その洗練された白磁とブルーは、京都の武家、中国そしてヨーロッパで広く知られるようになる。
柿右衛門などの陶工達の名の一部となっている“衛門”とは、本来は、皇居諸門の護衛を意味し、鍋島大名が磁器製造の秘法を密謀としたことに由来する。
金襴手。7皿、染付と石楠花絵、
鍋島陶器、江戸時代、17世紀8は、鍋島様式のお酒の徳利である。1609年には、日本の幕府は鎖国政策をとり、長崎の出島のみをオランダとの商業貿易の地とした。この磁器は、伊万里港に近い時代に輸出の目的に製作されたものである。中国の詩人がインスピレーションが浮かぶのを木の下で待っているという大変に異国情緒な光景が描かれている。
10は、柿右衛門スタイルの像。まさしく日本の洗練された美が表現されている。1680年にイギリスに輸入されたこの像は、まだ日本文化に対する知識が流布していない同国でインド産のものと推定されていた。8瓢箪型徳利、木の下に立っている男の姿を絵付け、有田、柿右衛門様式、江戸時代(約1660-1680年)9の壷も白磁と染付けのブルーの逸品である。北斎画にも見られるように竹と虎の絵柄は、仏教のイデオロギーの象徴として描かれていた。
9壷、虎と竹の絵柄による染付け、 有田、伊万里様式、江戸時代末期 -18世紀
10若い男の像、上絵付けによる装飾、 柿右衛門様式、江戸時代(約1660-1670年)
11、この竹の絵柄の絵付けされている酒徳利は、パリにある美術館の所蔵代表作であり、非シンメトリーの形がその意匠に美しく対応している。
下部に絵付けされている竹の子の発芽の絵図は、まるでそれが生きているかのような写実な描写である。
11酒徳利、多色釉薬によって彩色された陶器、柿右衛門、有田、江戸時代、17世紀末期―18世紀初頭
12は、殆ど色彩の使われていない水墨画の手法で12月の冬景色が絵付けがされている。
菖蒲の絵で名高い京都派の画家、尾形光琳の弟、尾形幹山による作である。
柿右衛門の絵付けのような鮮明な表現ではなく、濃淡の調子によって描かれたこの作品は、絵画が詩であり、また詩が絵画であるという、詩と絵画の融合が作者、尾形幹山の精神性と共に見事に表現されている。12矩形の皿、尾形乾山作、江戸時代、 江戸時代、17世紀初期この頃、中国では、1644年のMing朝の衰退により、国内の政冶・経済の危機が伴い、磁器製造にも難局を及ぼした。
イタリア、ナポリの地下鉄、またはローマのカンピドッリョ(現ローマ市役所の所在地)のある土地からは、この当時の中国の磁器が発掘されている。
こうした状況の中、特に1700年代後半、日本では、質、そして量と共に有能な職人達によって磁器の製造が盛んに行われるようになった。輸出は、ロシア、オランダ、アメリカまでに拡大した。
13は、1900年代初頭でのイギリスのクリスティーズのプライベートコレクションのひとつである深川の陶器である。13深川製磁、クリスティーズ・プライベートコレクション14は、尾形幹山作、象に乗る美人像を描いた絵画作品である。
この優美で洗練された女性と象の組み合わせは、仏教の思想に基づく、清純と道徳の象徴である。 人間の悟り、宗教的な題材を取り上げたこの絵画の実際のモデルは、大阪の江口界隈の遊女であり、“ジャポニズム”、異国的な情緒の香りのする作品に仕上がっている。14象に乗る美人、尾形幹山作15象に乗る古伊万里美人 置物 明治時代後期、深川製磁1900年にパリの博覧会に出品した深川製磁は、1910年には、宮内庁御用達の拝命を承るという栄誉を受ける。その当時の代表作と云える大壷は、パリ市チェルヌスキー美術館のエントランスを飾っている。
16、17 深川製磁商標。
16深川製磁商標17深川製磁商標今日のこの講演の締めくくりとして、私が昨年の10月にこのスペースで深川製磁社長の深川一太氏と対談した思い出をお話しする。深川製磁の磁器は、その“深川ブルー”と呼ばれる美しい青が特徴に挙げられる。その青の顔料で絵付けされた青い富士山の風景は、器の中で微妙で趣のある遠近法を生みだし、この物と物との間の興趣ある”距離感“とも云える感覚は、現代の日本では、失われつつあることを私は一太氏と語り合った。この感性は、日本古来の”もののあわれ“、外国語には翻訳の不可能な表現であるが、意味的には、”物の精神性への感受“に値する。
東洋の美術は、芸術家の瞑想的な思想から誕生し、その着想は、物、そして精神としての肉体に委ねられていくと言える。
(Images courtesy of Fukagawa-Seiji
www.fukagawa-seiji.co.jp and Arte Giappone www.artegiappone.com)
Kurihara Kazumi, Fukagawa-Seiji Milano Studio
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